マーシャル・フォッホ教授(フランス文学)

オックスフォード大学中世・現代言語学部のマーシャル・フォッホ教授(フランス文学)は、第一次世界大戦終了直後の1918年に設立された。 1918年4月から連合国軍の最高司令官を務めたフランスの将軍フェルディナン・フォッホ(通称「フォッホ元帥」)を称えるものである。 ギリシャ出身のフランスの武器商人・金融業者であるバジル・ザハロフは、同講座設立のために大学に2万5千ポンド(2016年現在128万8660ポンド相当)を寄付し、ザハロフ・トラベリング・スカラシップなど、学生への旅行奨学金授与などの形でフランス学支援を行った。 オックスフォードはザハロフの寛大さを記念して、1920年10月に彼に民法名誉博士号(DCL)を授与した。

この寄付のニュースは、フォッシュが11月11日のドイツとの休戦協定に署名し、敵対関係を終わらせた直後、1918年11月21日のタイムズに発表された。 タイムズ紙は、教授職の名称は「最近の大きな出来事」を記念し、「今後数年間の知的エンタテインメント」に備えて、「最も幸福な選択」であると述べている。 また、ザハロフが寄付をする以前から、オックスフォードにはフランス語とラテン語の教授職が存在していたが、今回初めてフランス語とラテン語が「オックスフォードでギリシャ語と並ぶ存在になる」とも書かれている。 ザハロフはまた、1915年から大戦終結まで西部戦線のイギリス軍を指揮した野戦司令官ダグラス・ヘイグ(1st Earl Haig)に敬意を表して、パリ大学にヘイグ伯爵英文学講座を創設した。 1919年2月18日、コングレゲーション(オックスフォード大学の統治機関)の会合で、大学の法令に必要な変更が行われた。 議論の中で、オックスフォード大学マグダレンカレッジの学長であるハーバート・ウォレン卿は、教授の年俸を500ポンド(2016年の22,124ポンドに相当)とし、「一流の椅子とする」ことを述べた。

ザハロフは当初、オックスフォードがフォッシュ元帥教授を選ぶ際にはパリ大学の認可を受けるべきと定めていた。 この規定はオックスフォード大学当局にとって受け入れがたいものであり、任命に対する支配権を譲り渡すものとみなされた。 そこで妥協案として、教授を選ぶ委員会にパリの代表を出すことが決まった。 歴史家のエリザベス・グリーンスレイドによると、「フランス人は、この新教授の就任を英仏の大学間関係を改善するチャンスと考えた」そうだ。 ステファン・ピション(フランス外務大臣)には、有力な候補者がいた。 彼は、在ロンドンフランス大使に、パリ大学代表のギュスターヴ・ランソンと、ランソンが選考の過程でピションの選択を支持することを合意するよう依頼した。 しかし、この合意は得られなかった。 結局、ピションが選んだ候補者も、ランソンとザハロフが共に支持した候補者も、オックスフォードはイギリスでの教職経験を持つ候補者を希望したため、任命されることはなかった。 1920年、最初の教授としてギュスターヴ・ルドラー(元ロンドン大学)が就任した。彼は、フランス人8人の応募者のうちの1人であり、また5人のイギリス人候補者を破っての就任だった。 マンチェスター・ガーディアン紙の匿名のロンドン特派員は1919年に、ルドラーの任命によってロンドン大学は「計り知れない損失を被る」、「フランス文学の研究をまったく新しい次元に引き上げた」ので「彼を失う余裕はない」と書いている

このポストにはオールソウルズ・カレッジの非伝統的フェローシップが付随している。 1920年以降の大学の内部規則の変更により、マーシャル・フォッホ教授職のような個々の講座の任務や任命に関する具体的な法令が廃止された。 現在では、大学評議会が任命と勤務条件について適切な調整を行う権限を持ち、教授職が割り当てられたカレッジ(この例ではオール・ソウルズ)は選挙人委員会に2名の代表者を擁している

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