南北戦争とその余波

戦争中、ケンタッキー州は分裂状態であった。 公式には、クレイの伝統である妥協(クレイは1850年の妥協に関与することで再びそれを発揮した)を継続することで戦争を回避しようとしていたのである。 しかし、戦争が始まると、約76,000人の兵士(うち約15,000人は黒人)が北軍のために戦い、約34,000人が南軍のために戦った(戦後、国民の感情は強く南軍寄りになった)。 ケンタッキー州は北軍と南軍の両方から侵略された。 1862年10月8日、ペリービルで南軍のブラクストン・ブラッグ将軍が敗れた後、この州での軍事行動は広範なゲリラ戦のみであった。

Braxton Bragg

Braxton Bragg.

Library of Congress, Washington, DC.

戦時中はケンタッキーに広範囲な変化がもたらされた。 奴隷が自由民となり、奴隷問題であったものが人種問題となったのです。 南部の市場は破産し、ケンタッキーは残された貿易をめぐって北部と競争することを余儀なくされた。 (南北戦争終結時には、ケンタッキー州の原生林のほとんどが残っており、鉱物資源もごく一部しか採掘されていなかった)。 さらに、ケンタッキー州はもはや移民の通り道ではなく、入植者がミシシッピ川を越えて移動する際に迂回されていた。

19世紀最後の数十年間、さまざまな社会・社会経済的紛争がこの州を苦しめた。 白人至上主義の憎悪組織クー・クラックス・クランが恐怖と反感を醸成したが、解放奴隷には投票権が与えられ、多くは小作人または都市労働者として定住した。 しかし、ケンタッキー州の黒人は、一流の市民にはなれなかった。 隔離が常態化し、黒人だけのコミュニティが数多く生まれた。 一方、レキシントンやオハイオ川流域の都市(ルイスビル、オーエンスボロ、パデューカ、コヴィントン)は急速に発展し、農村地域はこの時代のポピュリスト的農民政治に巻き込まれることになった。 タバコ生産者とタバコ信託会社の間の争いは、納屋の焼き討ちとタバコの価格を維持するための同様の試みの時代をもたらした。 1865年から1910年にかけては、アパラチア山脈での復讐劇がケンタッキー州のイメージを悪化させた。 その中でも最も有名なのは、ハットフィールド家とマッコイ家の確執である。 歴史家のトーマス・D・クラークが『ケンタッキー百科事典』(1992年)で要約しているように、「1900年のケンタッキーは、地方色が強く、農耕民族の州としての条件を象徴している」

のである。

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